楊 渥(よう あく)は、十国呉の第2代王。太祖楊行密の長男。呉の君主の一人と認められているが、その在位中には呉王と名乗っていなかった。

生涯

楊行密の在位時には牙内諸軍使で、その晩年に病が重くなると宣州観察使となった。

天祐2年(905年)、父が死去すると跡を継ぎ、唐から淮南節度使・東南諸道行営都統・侍中・弘農郡王に任じられた。

楊渥は遊興にふけり、左衙指揮使張顥と右衙指揮使徐温の諫言を聞かず、父の代からの旧臣を威圧したため、天祐4年(907年、既に唐は滅びていたが、呉は後梁を認めていなかったため、唐の年号を使い続けていた)、張顥と徐温はクーデターを起こし、権力を奪取した。翌年に両者に殺害された。

死後、威王と諡されたが、弟の楊隆演が呉王になると改めて景王と諡された。廟号は烈祖(『新五代史』では烈宗とする)。楊溥の時期に景帝の諡号で追尊された。


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