遏捻可汗(呉音:あちねんかがん、漢音:あつねんかかん、拼音:Èniǎn Kĕhàn、? - 848年)は、回鶻可汗国崩壊後の可汗。烏介可汗の弟。

生涯

会昌6年(846年)7月、烏介可汗が宰相の逸隠啜によって殺されると、国人はその弟である遏捻特勤を立てて可汗とした。しかし、この時の兵力は5千しかなく、遏捻可汗は奚の大酋である碩舎朗に食料を求めた。

大中元年(847年)春、東面招撫使の張仲武が回鶻を援助する奚を大破したため、回鶻は次第に消耗していった。

大中2年(848年)春、遏捻可汗のもとには名王貴臣の500人しかいなくなったため、彼らは室韋に依ることにした。しかし、張仲武が遏捻可汗らを捕えるべく黠戛斯(キルギス)などを室韋に向かわせたため、遏捻可汗は懼れて妻の葛邏禄(カルルク)と子の毒斯特勤ら9騎だけを連れて夜に西へ逃亡し、行方をくらました。室韋は回鶻の余衆を分けて七分とし、七姓室韋は各一分を占領した。そこへ黠戛斯宰相の阿播が領する諸蕃兵7万が遏捻可汗および諸回鶻人を捕えるべく室韋に攻め込んできた。室韋は阿播の軍に大敗し、回鶻人ともども黠戛斯の略奪を受けた。

ここにおいて回鶻可汗国は完全に滅亡し、残る回鶻の残党は甘州に拠ったヤグラカル氏の勢力(甘州ウイグル王国)と、北庭に拠る厖特勤(ほうテギン)と僕固俊の勢力(天山ウイグル王国)のみとなった。

妻子

可敦(カトゥン:皇后)
  • 葛邏禄(カルルク)…カルルク出身か?
  • 毒斯

脚注

参考資料

  • 『旧唐書』(列伝第一百四十五 迴紇)
  • 『新唐書』(列伝第一百四十二下 回鶻下)
  • 『資治通鑑』(巻第二百四十八)

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